ちょっと曲がった家

おもに家と庭についてのブログです。。。

阪神・淡路大震災の記憶

阪神・淡路大震災から20年となり、あの日の事を改めて思い出しました。

ロウソクの灯りのイラスト

阪神・淡路大震災

私は神戸で生まれ育ち、20歳で震災にあいました。

1月17日 震災当日

早朝、地鳴りで直前に目が覚め、脱水機に放り込まれたような激しい揺れに布団の中でうずくまるしかできませんでした。

家中引っ掻き回されたようなグシャグシャの状態で外に出ると、向かいの家は軒並み潰れたり、屋根が落ちていたりという状態でした。

幸い家族や近所に死者は出ませんでしたが、日常が一変した様子に映画のセットにでも紛れ込んだような気持ちで、半分夢見心地で家の片付けをしながら一日を過ごしました。

がれきに埋まった神戸の街

外に出てみると、通りを隔てた向かい側は被害がひどく1階が潰れてしまった長屋などが並ぶような状態でした。

またガス漏れが発生しているのか、ガス臭い場所などもあり、家が潰れて公園に避難してきた人たちも途方に暮れている様子でした。。。

西の地域で大規模な火災が発生し、夕方でもないのに夕焼けのように真っ赤に空が染まったのを、今でも鮮明に覚えています。

夜はラジオから延々と安否確認の情報や死者の名簿を読み上げる声が流れるのを聞きながら、家族で雑魚寝で眠りました。。。

震災1週間は片付け

2日目くらいからは水や食料の配給が始まり、家族で協力して衣食住を確保するのに精いっぱいでした。

だんだんと気持ちに少し余裕が生まれたのか、友達の安否確認をしに避難所に探しに行ったり、自転車で三宮(繁華街)の様子を見に行ったりしました。
(自宅がつぶれた人は居ましたが、幸い友人たちも全員無事でした)

無断欠勤1週間

当時、新入社員だった私は、目先の家の片付け作業や食料・水の確保に追われて会社を休み続けていましたが、さすがに1週間目には会社から呼び出しがあり、出社を再開しました。

震災後、全員が着の身着のままで過ごしていましたが、出社前日に父が飲料用の水をストーブで沸かしてくれ、私だけ特別に髪の毛を洗わせてくれました。

被災後の営業再開

勤めていた会社は小さなOA入力サービスの会社で、本社は入居していたビルごと潰れましたが、無事だった別の場所にある分室で営業を再開しました。

JRも私鉄もバスも途中で止まっていて、遠方から通勤していた同僚たちは、赤帽トラックの荷台に乗せられて最寄駅まで送ってもらうという状態でした。
今思うと、スゴイ通勤手段ですよね(^^;

仕事をしていると、震災前の生活に戻れたように感じましたが、余震が来るたびにその場で固まってしまうような精神状態でした。

辛かった生活レベルのギャップ

私の家はまだライフラインが停止していて、水とガスが復旧するまで、近くの小学校の自衛隊のお風呂に入りに通いました。

お湯の汚れをごまかすためか毒々しいくらい黄緑の入浴剤が入れられたお風呂でしたが、すごく温かくて有難かったです。

やっと元の生活レベルに戻れたのは3,4か月後くらいだったように思います。

職場のある地域や明石以西から通ってきていた同僚たちは、ほとんど被害がなかったようで、以前と変わらない生活をしている様子に、何とも言えない不公平感を感じたりもしました( ;∀;)

被害が少なかった会社や同僚との生活レベルのギャップは、地震を経験した人の多くがストレスとして感じていたようです。

紙一重で助かった

自宅が半壊で済み、避難所や仮設暮らしにもならず、身内も全員無事だったのは本当にたまたまだったとしか言えません。

道一本隔てただけで家の被害状況が全く違い、ほんの僅かな違いで命拾いしたように思います。

実際、私が寝ていた枕元にアップライトピアノがあり、フローリングで滑ったお蔭で下敷きにならず命拾いしました。

もしかしたら、私はピアノの下敷きになって死んでいたかもしれません。。。

こんな程度の体験では「被災者」とは言えませんが、私なりに感じた事を娘にもしっかり伝えていきたいなと思います。

今まで震災の事は他人に話しませんでしたが、自分自身が忘れないためにも、1月17日だけは震災の記憶を思い出して再確認しようと思います。

私の一人語りを最後まで読んでくださって、ありがとうございますm(_ _)m

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